広島の原爆について私が息子に伝えられる事

戦後生まれの私が出来る事

戦争を経験していない私が、「戦争について語るのはどうなんだろう」と思うのですが、日本人として、日本の歴史として私が知っている事を息子に伝えたいと思うのです。アメリカの歴史とともに日本の歴史も知ってもらいたいのです。

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小学校で絵本を読む

息子が小学校5年生の時に担任の先生から「日本語の絵本を知人から借りる機会があったので是非クラスで読んで欲しい」と担任の先生に言われました。最初は日本語に触れる機会がない生徒がどんな反応をするか不安だったのですが、子供達は静かに聴いてくれました。本の内容は先生が子供達に英語で説明してくれました。たまたまこの絵本が原爆に関係した内容だったので、私のそのことについて少し語ったのですが、子供達にはピンとこなかったようです。それでも私がみせた広島の平和記念公園の写真は、興味をもってみてくれました。

私にこういった機会を与えてくれた先生には、とても感謝しています。まだ若く素敵な先生でした。

中学、高校と進んでいった時に世界史を学ぶときに少しでも思い出してくれればよいです。因みに高校で第二次世界大戦について学んだ息子達ですが、ヨーロッパでの戦争のことを主に学んだようです。高校1年生では社会科は地理の授業でした。(アジアのことは最後に少し学んだだけのようです。涙)

 

私の両親は

私の父は戦時中生まれ、母は戦後生まれです。父は祖母と一緒に疎開も経験しています。(本人は覚えていないらしいですが。)

祖母の話

子供の頃、時々、祖母は戦時中の話をしてくれる事がありました。もちろん子供の私に話しているのですから、あまり悲惨なことは話してくれませんでしたが、広島県に住んでいた祖母は広島のピカを西の空に見たこと、防空壕をほったこと、配給の魚で体を壊してしまった子供(母のいとこ)が居た事などを話してくれました。

祖父は

子供のころ祖父が「戦友に会いに行く」という事をいっていた時に戦友というのが何か分かっていませんでした。(それが分かったのは随分後の事です。)実際に戦争にいった祖父は、戦争の事はほとんど聞いたことはありませんでしたが「ご飯さえあれば大丈夫。(おかずが無くても文句言わない)」とよく言っていました。時々、兵隊の時の食事の話をおもしろおかしく話してくれました。

外地の写真

私が子供の頃私が見せてもらったのは東南アジアの外地の写真です。綺麗な浜辺の写真がほとんどでした。


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母の話

母から聞いていた話によると祖父が居た部隊は広島の原爆の日の当日の朝、爆心地地点に居たのが投下された時には、爆心地から離れた北のほうに移動していたということでした。また祖父の兄は、兄を心配して歩いて広島市まで行ったということです。(ずっとこの話を信じていたのですが、どこまでが本当か分かりません。)

実は

私が30歳になった時、はじめて知ったのですが、祖父は原爆の被爆者でした。母が被爆者の娘だと知れてお嫁に行けなかったり、いじめにあったりすることがないように直接被爆はしていないといっていたようです。資料によると祖父は、祇園国民学校(現在の広島市安佐南区祇園3丁目)で直接被爆しています。(グーグルマップで調べてみると爆心地から5kmから6kmくらいの場所のようです。)このときはじめて祖父の口から被爆体験を聞くことができました。戦後すでにかなりの月日がたっていましたが、とてもつらそうに当時の体験を語ってくれました。

10日もすれば、1人2人ずつ毎日死人がでます、河原が火葬場となりました。(抜粋、祖父の手記より)

 

今は亡き祖父に貴重な話をきかせてもらいました。

息子には

息子には、機会があるごとに少しずつ話をしているのですが、あまりピンとこないようです。学校でアジアの歴史を学ぶときを狙っています。そのときにもう少し深く話すことができたらよいと思います。

学校ではほとんど日本の歴史を学ぶことがないので少しでも日本の歴史を知ってもらいたいです。もちろん戦争の事に限らずいろいろなことに興味を持ってくれたら嬉しいです。

まとめ

夏が来るたびに祖父のことを思い出します。そのたびに日本のこと日本の歴史について考えさせられます。私が出来る限り息子に私の知っている事を伝えていきたいです。(本人がもうちょっと興味をもってくれたら嬉しいのですが、これも親の努力しだいですね。)

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